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予測可能性、そして知識の減少

月曜日, 11/01/10 1件のコメント

THE DEGRADATION OF PREDICTABILITY — AND KNOWLEDGE
NASSIM N. TALEB

http://www.edge.org/q2010/q10_1.html#taleb

NNTはご存知ブラック・スワンの著者。
上の文章を和訳してみることにします。
色々誤訳やらあると思うので、そのあたりはコメント欄にお願いします。
コメントは承認制にしております、直ぐには表示されませんがご了承ください。

情報がホモ・サピエンス(訳註: 知恵のある人)を馬鹿に変えることが情報の持つ問題だ、と私は考えていた。
情報を得る結果、特にひどいノイズにくるまれた分野(疫学、遺伝学、経済学など)において、私たちは過度に自信を得る。
そのため、私たちは実際に知っているより多くのことを知っているという考えにたどり着き、そのため経済活動で馬鹿なリスクを取ってしまう。
私は(株式)取引を始めたとき、ニュースの量を減らすように取り組んだ。
その結果もっとクリアに物事が見られるようになった。
また、ランダム効果で誤魔化された不毛なニュースを基に、どのようにして人間が沢山の理論を形成するかを見てきた。
けれど事態はもっと悪い。
今私は情報の供給と広がりが世界を”果ての国”(Black Swan参照)に変えているとも思う。
インターネットは情報を人々に広げるから、相互依存、すなわち流行の悪化(ハリー・ポッターのようなベストセラーが生まれ、取り付け騒ぎが全世界的なものになる)がより起きるようになる。
そのため、世の中はより”複雑”で、もっと気分的で変わりやすい、ますます予測不可能なものになっている。

だから今の危険な状況を考えてみよう。
予測可能性が低まっているのに、(特にインターネットのおかげで)情報がより多くなり、それがもっと人間に自信をもたせ、自分が実際に知っているより知っているという幻想を強くするのだ。

2008年に始まった、この最近の経済危機を見てみよう。
2008年の時点で経済学者だと自称する人は地球上に100万人いた。
しかし、どれくらいの確率でどれくらい深刻なことがが起こりうるかを理解して、この危機から自分を守れた人はそのうち片手で数えられるくらいの人間しかいなかった。
歴史上、人類はこれほどの無知(予想の誤差という観点から容易に測れる)と知力の思い上がりを経験したことがない。
中央銀行総裁には債務水準(Debt level; 日本語わからん)といったバビロニア人(訳註: 1823B.C.-330B.C.と思う)でさえよく理解できるくらいに単純なリスクの物差しが全く欠如していた。

私は最近、賢明で博学な学者(めったにいないのだが)のジョン・エルスター(Jon Elster)と話をした。
ジョンは社会科学のテーマについて、キケロやセネカから、モンテーニュやプルーストに至るまで過去2500年の資料の中から著者の洞察をまとめている。
どのようにしてセネカが失ったことに対して抱く嫌悪感を洗練された方法で理解をしているかを彼は教えてくれた。
私はインターネットに使った時間を後悔していた。
家につくとすぐに、郵便の中にHuetianaと呼ばれたピエール=ダニエル ユエ主教によって書かれ、死後の1722年にファンによって編集されたたくさんの随筆があるのを見つけた。
ユエの死後4世紀というとても近い時期に生まれ、彼の死語書かれた文章で(訳注:推定;フランス語の)読み方を習っておきながら、ユエより私の知恵がそんなに進んでいるわけではないと知ってとても悲しかった。
近代人の上端は、古代人の中で近代人相当の知恵を持つ人と同じくらい頭が悪いのだ。
たとえ何か張り合うものがあったとしても、全然洗練されていないものだろう。

それで、世界を少しでもよく理解するため、私はインターネットの減量に取り組んでいる。
それに経済政策を決める人たちはまた恐ろしい間違いをすると私は確信している。
とはいえ私は完璧にインターネットから離れるわけではない。
厳格な配給制にして、とても過酷な減量をするだけだ。
確かに、技術はこの世界の最も素晴らしいものだ。
しかし、技術にはかなり巨大な副作用がある- そしてほとんどの人がこの先何があるかを予測することはできないだろう。
ほとんど情報に汚染されることなく静かな書斎にこもって時を過ごすから、私は自分の遺伝子と合致していると感じることができる。
私は自分の成長がまた感じられるのだ。

下記原文

NASSIM N. TALEB
Distinguished Professor of Risk Engineering, NYU-Poly; Principal, Universa Investments; Author, The Black Swan

THE DEGRADATION OF PREDICTABILITY — AND KNOWLEDGE

I used to think that the problem of information is that it turns homo sapiens into fools — we gain disproportionately in confidence, particularly in domains where information is wrapped in a high degree of noise (say, epidemiology, genetics, economics, etc.). So we end up thinking that we know more than we do, which, in economic life, causes foolish risk taking. When I started trading, I went on a news diet and I saw things with more clarity. I also saw how people built too many theories based on sterile news, the fooled by randomness effect. But things are a lot worse. Now I think that, in addition, the supply and spread of information turns the world into Extremistan (a world I describe as one in which random variables are dominated by extremes, with Black Swans playing a large role in them). The Internet, by spreading information, causes an increase in interdependence, the exacerbation of fads (bestsellers like Harry Potter and runs on the banks become planetary). Such world is more “complex”, more moody, much less predictable.

So consider the explosive situation: more information (particularly thanks to the Internet) causes more confidence and illusions of knowledge while degrading predictability.

Look at this current economic crisis that started in 2008: there are about a million persons on the planet who identify themselves in the field of economics. Yet just a handful realized the possibility and depth of what could have taken place and protected themselves from the consequences. At no time in the history of mankind have we lived under so much ignorance (easily measured in terms of forecast errors) coupled with so much intellectual hubris. At no point have we had central bankers missing elementary risk metrics, like debt levels, that even the Babylonians understood well.

I recently talked to a scholar of rare wisdom and erudition, Jon Elster, who upon exploring themes from social science, integrates insights from all authors in the corpus of the past 2500 years, from Cicero and Seneca, to Montaigne and Proust. He showed me how Seneca had a very sophisticated understanding of loss aversion. I felt guilty for the time I spent on the Internet. Upon getting home I found in my mail a volume of posthumous essays by bishop Pierre-Daniel Huet called Huetiana, put together by his admirers c. 1722. It is so saddening to realize that, being born close to four centuries after Huet, and having done most of my reading with material written after his death, I am not much more advanced in wisdom than he was — moderns at the upper end are no wiser than their equivalent among the ancients; if anything, much less refined.

So I am now on an Internet diet, in order to understand the world a bit better — and make another bet on horrendous mistakes by economic policy makers. I am not entirely deprived of the Internet; this is just a severe diet, with strict rationing. True, technologies are the greatest things in the world, but they have way too monstrous side effects — and ones rarely seen ahead of time. And since spending time in the silence of my library, with little informational pollution, I can feel harmony with my genes; I feel I am growing again.

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庭ツアー1日目

水曜日, 25/11/09 コメントする

うどんツアーをしたものの、青春18きっぷが2日分余ったので消化の旅。
いくつか見て回りたいところがあったので、それらを回ることに。
初日は、広島が目的地。
2日目は、姫路と岡山。

実家→福岡の家。
荷物を置いて、吉塚から快速に乗る。
門司、下関と乗り換えて広島へ。
前回は外を眺めたり本を読んだりしてたが、今回は寝たり本読んだり外眺めたりしていた。
今回は気合いの入った荷物ではなく、大きくないバックパック1つに本と少しの荷物を入れて。
広島に着いて、まずは縮景園
とても素敵。
緑と青、茶色の配置が素晴らしかった。

後ろにマンションがあることから分かるように、住宅街にあります。

小高い丘から眺める。

こういうところで城主はお茶していたのでしょう。

秋晴れのすっきりとした空の下、本当に綺麗。

庭をそんなに見たことはないけれど、本当にここは「美しい」と感じた。
庭園内どこへ行ってもいい光景が見られる。

それから縮景園の隣にある、広島県立美術館へ。
ロシアの国立トレチャコフ美術館展を見た。

レアリスムの追求、フランスの香りがするロシアの印象派絵画。
写真のような絵が好きな私にはツボでした。
どれもこれも素敵で、ただ独創性はあまり感じられなかった、ほとんど止まらずに見ました。
ロシア人画家多すぎてわからん。
ロシアはすごいということが分かった。
家に帰って図録見直してみよう。
そして、何より驚いたのは、友人Fと偶然会ったこと。福岡でなく、まさか広島で会うとは…

それからまた歩いて広島城へ。

ふーん。
(小さい頃から日本三名城の一を見ているとそうなるのかも…)

暑い陽射しを右に感じながら、川沿いに下って、原爆ドーム、平和記念資料館へ。
小学校の修学旅行は知覧で、原爆関連の施設は自ら見るしかない。

いろいろ映像は見たけど、やはり実物を見ると違うものがあります。

川を渡ると、原爆の子の像があります。

道を挟んで反対側に平和記念資料館。

平和記念資料館の「きねん」はむしろ「祈念」だろ、なんて思いながら人間の愚かさを見ました。
アメリカが原爆使用を検討した事件の一覧を見て呆れました。
戦争は悪かもしれないけれど、核爆弾使用は人道上間違いなく極悪。

広島と言えば広島焼き!ということで、食べに。
歓楽街で散々迷った挙句、食べログランキング4位の八紘で食べた。普通じゃない??
確かに、小麦を出汁で延ばしたのは薄いけど。

あ、そういえば「うどんツアー」でキャベツ焼き食べ忘れた!と思い、支店のある神戸元町へ。
広島駅に路面電車で戻り、山陽本線。
和木駅での人身事故の影響で30分近く列車の遅延。最終電車で移動しようと思っていたので大変に焦る。
どうにかこうにか岡山で接続し、事なきを得た。
随分前の「きょうの料理ビギナーズ」テキストで紹介されてたキャベツ焼き。
うどんツアーで食べ忘れてたので、神戸の店舗で食べようとしたら、閉店時間が早まってて、着いた頃には閉店。
OMG。
大阪に行ったときに食べると決め、今回は泣く泣く諦める。

この日の読書
海の都の物語 3巻」読了。
ブラック・スワン 上」2/3くらい読んだ。とても興味深い。
本来の用途では無いが、自信喪失してる人に効きます。

キャベツ焼きを食べられず残念な気持ちになって、日が変わります。

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携帯電話の電磁波被害?

水曜日, 05/08/09 コメントする

日曜日、ディベートのセミナーに行ってきた。
ディベートをしたことがある人無い人どちらともが対象で、高校生と学校の国語教師が主な参加者。
高等学校の国語の先生がディベートについて話し、模擬ディベートがあり、希望者は立論をそれぞれやってみて評価をもらう、というもの。時間の都合上、反駁であったり質問であったりは参加者は誰もやっていない。
論題は、「小学生の携帯電話の所持を禁止するべきか否か」。
これは政策論題に入るので、どのような政策を立てるかということも立論しなければならないはずだが、都合によりそれは割愛された。
ということで立論してきましたとさ。

肯定側になったので、「禁止するべし」ということで立論を考えねばならず。
私の意見は「禁止するべからず」だったので、頭をひねるのに一苦労。
頑張って「心の健全な発育のため」と、それに3つ理由をつけて発表した。
その頭をひねるときに資料を見たら「電磁波の影響がうんぬんかんぬん」という話が載っていた。
これを使ったら相当頭にくる、と思って論拠には使わなかった。

その電磁波被害のこと。
その資料ではさいたま市に本社のある会社のwebページにある文章が引用されていた。
「携帯電話最大の問題は、口と耳に近づけて用いるため、眼や頭に極端に近いところで電磁波を受け続けることにあります。(中略)これは言ってみれば頭部に電子レンジのマイクロ波を受けているようなもので、体に有害であることは明らかです。また、最新の研究では熱を発生させない微弱レベルのマイクロ波でも、ガンや脳腫瘍、白血病、白内障、奇形などを起こすことが世界的に証明されています。」
とある。
あと毎日のT氏の「Voice取材メモ」にある文章も引用されていた。
それには、「子供の頭は大人より5倍の電磁波を吸収する」とあった。

これらについて腹が立ったのである。
似非科学ではないか、と。

基本的なことについて整理しておこう。
・携帯電話は電波を利用して通信している
・電波とは、電磁波のうち光より周波数の短いもの(波長の長いもの) (wikipediaより)
・電波法第2条の1は電波を「三百万メガヘルツ以下の周波数の電磁波」と定義している。
・日本の第3世代の携帯電話(ケータイ全体の80%超だという)の通信に使われるのは
815-850MHz
860-895MHz
1749.9-1784.9MHz
1844.9-1879.9MHz
1920-1980MHz
2110-2170MHz

だそう。(wikipediaより)
・マイクロ波とは、周波数が300MHz-3THzの電波を指す
・電子レンジは2.45GHzの周波数を用いる
・電子レンジで物が温まるのは、酸素原子-水素原子間の結合と共振する周波数を当てているから。

さて、ポイントを整理して批判しよう。 続きを読む…

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感性と学習、自由とルール

月曜日, 03/08/09 コメントする

【本ナビ】 一日一冊読書感想集紹介されていたなぜあの人には、センスがあるのか。―華やかに毎日を楽しめる42の法則」を買ってみた。
上記のほうが詳しいのでそちらに譲りますが、「感性を磨きましょう、そしてその磨かれた感性に遵って行動しましょう」というのが私なりのまとめである。
帽子は取ったり被ったりするためにあるのであって、被るためだけにあるだけではない、だとか色々なことが書いてある。

感性というのは私が気にするところの一つであって、室内で帽子を被ったままの人、雨なのにストローハットを被っている人、そんな人々を見ると
m9(^Д^)プゲラ
なんて思ってしまう。

本書には、感性は色々なものに「気づく」ことで磨かれるものだ、というような内容が書いてある。
これが難しい。
一度色々なものに「コレ素敵」と気づいて学習をする。これは感性を上げる作業。
その後、同じものを見たとき「こういうのもあったわね」と感じる。これが学習の結果、感性の閾値が上がった証拠。
ただ、閾値が上昇すると色々なものに気づくのが鈍くなる。
これが問題なのである。
学習をしつつも、適度に旧いものを忘れ(無意識化で起こっちゃいるのだろうけれど)、閾値を高くしすぎないことが大切。
行うは難し。
でも客室だったり部屋だったりを掃除するのは簡単だからやりましょうね、と。

感性を磨かれたままに保つためには失敗を恐れず色々なものに挑戦しろ、などということも本書には書いてある。
どこかで聞いたような言葉であるが、こちらでも適用されるのね。
挑戦する、ということは、例えばファッション分野だったら新しいデザインや色を着こなす、ということである。
これがなかなか一筋縄には行かない。
男のファッションで、歴史のあるスーツだったりジャケパンだったりそんなのは比較的に速く上手に着こなせるようになる。
大体2年くらい。
一方、カジュアルというのは大変に難しい。
流行りを取り入れつつ、所謂「自分らしさ」を出しつつ、季節感を出さねばならぬ。
先日の私の恰好といえば、パナマ帽を被り、ユニクロのストールを巻き、ダークブラウンの長袖シャツ、色落ちしたジーンズをふくらはぎ真ん中までロールアップ、足元は黒のスニーカーに紺のロングホーズ。
色の調和も取れていないし、バランスも悪い。「テーマは混乱」と言い訳しておいた。

ファッションはルールとブレーキング・ルールのバランスで成り立っている。
ウィンザー公がブレーキング・ルールをやってのけたことは有名だ。
ルールを守ると無難に仕上がるし、色々と支度も楽だが(パターンだから)、保守的で面白くない。
ブレーキング・ルールをやるとエキセントリックだが評価は基本的に散々。
それらをどう取り入れるかが面白さである。

昨年ごろからジレが流行している。
もともと3つ揃いの中の1アイテムでしかなかった、あのチョッキが、Tシャツや帽子に組み合わせてカジュアルをしゃっきりさせられている。
Tシャツ着てるとジレの襟首が汚れますよ、と親心に言いたい。
ベストというのは襟付きのシャツに組み合わせるものだと思っているから私はジレには走らないが、ああいうブレーキングルールも業界的には必要なのかもしれない。
ただ、ブレイキング・ルールというのはルールを認めたうえで成り立つものであると思う。
そうしないと無法地帯になって、センスも何もなくなります。
もしかするとそこでInnovationが起こってBreakthroughがもたらされるのかもしれないけど。
注: ジレ+アイロンをかけてある襟付きのシャツ(それも白ではない)+タイ(単色のニットタイか単色のシルクタイ)+α、という組み合わせはあり。

ごちゃごちゃなってしまった。
結局
・感性は磨くべし
・ただ、「学習」して少し磨いたからといって、それで十分なわけではない。
・むしろ中途半端な学習は感じる閾値を上げるのみ。
・閾値をあまり上げず、感性を磨き続けよう
・掃除しましょう
・ルールとブレイキング・ルールのバランスをうまくとりましょう
・ブレイキング・ルールというのはルールを認めたうえでのことだと思う

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